俺のスタイルは基本的に学生時代に覚えた渓流釣りから来ている。これはバス釣りであろうとマス釣りであろうと、一貫している。そのバックボーンは、とにかく人の行かないところへ釣りに行くことだ。したがっていかに著名な釣り場であろうと、人の群れている所には絶対に行かないのが俺の主義である。

その代わりいかに人の行かない、また行けない場所へ到達するかに俺はこだわることにしている。例えば渓流釣りにおいては、俺が目指すのはひたすら源流、それもちっとやそっとでは人のたどり着けない剣峪が最も望ましい。もちろん川沿いには仙道さえもなく、釣り場へ到達するまでにザックを背負って悪路を2〜3日もかかるようであれば最高である。

このため俺のキャンプスタイルは常にゲリラ方式だ。つまり生活道具一式を自分の背中に背負って、辺りが暗くなる1日の終わりにはキャンプを張り、次の早朝には再びキャンプをたたんで移動を繰り返すやり方である。

このやり方はキャンプの楽しみも満喫できる上に、気に入った場所ですぐキャンプできてしまうので、好都合なことこの上ない。しかし何と言っても重い荷物を背負って道なき悪路を長時間移動し続けなければならないし、それに伴う危険も多い。例えばウッカリ転んで骨折でも起こした暁には、命の危険も覚悟しなければならないことがある。だからこそ、誰でも気楽に入って来れない訳なのだが・・・・・。

バス釣りなどもっと開けたところで俺のやる釣りは、やはりできるだけ人の手の届かぬ場所に到達することだ。もちろんだからと言って、釣り禁止の場所に俺が出入りすることはない。釣り禁の場所なんて、コッチからお断りというのが俺の基本姿勢なのだ。

そんな場合、人の手の届かぬ場所に到達するために俺が使用するのは、あるいはボートでありフロートチューブである訳だ。時には背中のザックにたたんだボートを忍ばせて、ブッシュの中を何キロも藪こぎすることもある。だから俺の使用するボートは常にゴム製の折りたたみボートであり、アルミボートなどでは決してない。重くてかさばるボートを使用のたびに車の屋根から上げ下ろししなければならないなんて、俺には考えられないことだ。

しかし最近は何処も人が多くて、中々開けた場所では人の来ない場所も少なくなってしまった。そういう場合、俺は発想自体を転換してしまうことにしている。つまり皆がバス釣りをしていれば、俺はバスではなく鯉やブルーギルを釣って楽しんでしまう訳だ。これは人生にも共通すると思うのだが、「釣りというのに、これでなければならないということはない。」というのが俺の持論だ。

だから人がバスに寄ってたかってしかも釣れていない時には、俺はもっと違う次元に楽しみを見出す訳である。例えばブルーギルをマス用の柔らかいフライロッドで爆釣してみたり、辺りにウヨウヨ泳いでいる鯉を狙ってみたりする。これは逃げではないのかと言う人もいるが、そうではない。新たな楽しみを見つけ出したまでのことである。

釣れないバスフィッシャーマンの近くで大物鯉をビシバシ釣り上げたりするのには、これはこれで別種の意地悪な愉しみが存在する。たいていの奴は、あんなの大した釣りじゃないとか、エサで釣るのはずるいやり方だとか、聞こえよがしにブツブツ唱えあった挙句、辺りから何時の間にかいなくなって行く。

「面白い釣りをしてますねェ」などと話しかけてくるのは、大抵ベテランの釣り師か話のかなりわかる奴だ。こういう奴とは話していても楽しいことが多いし、人間を見分けるのにもかなり俺の釣り方は役立つようである。

釣りの手段も別にルアーやフライにはこだわらない。その場に適したものでさえあれば、エサ釣りだろうがナンだろうが簡単にスィッチする。人と同じ事をせずとも、要は自分なりの釣りの愉しみを発見すれば良い訳だ。俺にとっては、バスもマスも、雷魚やギルも、鯉や鮒だって立派な遊び相手なのである。

そんな俺が川釣りで最近凝っているのはフロートトリップである。これはボートやフロートチューブで川を下りながら、自分の気に入ったポイントを拾い釣りしながら下流へ旅するというものである。実際に下ってみれば分かるのだが、自分の良く見知っている筈の川でも、どれ程未知の場所が次々に現れることか。目からウロコの落ちる思いをすることもしょっちゅうだ。

そしてこの旅の途中では、しばしばこれまで自分の知らなかった川沿いの自然の豊かさに驚くことが多い。川というのは、人里に残された最後の自然のオアシスであることに、今更ながら気付かされるのである。そしてこの旅が新しい世界の冒険であったことにも・・・・・。

俺の釣りはいわゆるテクニックなどとはかなり遠いところにあるかもしれない。なぜなら俺は釣れない魚などに余り興味はないからだ。日によって魚の釣れ具合が違うのは当然だし、魚には魚の都合があるというのが俺の考え方である。だから釣れる気がない魚には釣れていただかなくて結構なのだ。

この点俺のスタイルはテクニック重視派の釣り師とは対照的である。彼らが最も重きを置くのは釣れない魚をいかにして振り向かせるかであり、このゲームが難しければ難しいほどファイトをかき立てられるのであるらしい。だが俺は、敢えて食う気のない魚に食い付いてもらおうとは思わない。魚には魚の事情があるのだし、どうせ人間が絶対に口を開くまいと硬く心に決めている魚の口を開かせることはできぬのだ。例え結果として偶然に口を使わせることができたとしても、それがどれほどの自慢の種になるだろう。所詮魚の気持ちは魚にしかわからない。できるのは精々こうであろうかと、想像を巡らせることくらいである。

だから俺は釣りのプロというのが嫌いである。彼らは釣れた時にはコレコレだからと解説し、釣れなかった時にもアレコレだからと解説する。釣れなかったのなら、せめてどうして素直に分からないと言えぬのか。しかし分からないものを分からないと言っていては、商売にはならないであろう。だから時々苦しい言い訳を続けている彼らを見て、気の毒にならぬこともない。

釣りというのは魚の気持ちが分からないから面白い。魚の気持ちが分からないから、思わぬ時に思わぬ大物が食い付いたりして、新たな感動を誘うのである。そして気が付くと、何時の間にかこの道から抜け出せなくなっている。もしも魚の気持ちが全て読み取れるものなら、こんなにつまらぬ遊びもないであろう。一々魚の気持ちに遠慮しなければならないだけでもわずらわしいに違いない。

以上ですでにお分かりのことと思うが、俺の釣りはまとめて言うと偏屈なベメンメェの釣りである。人と同じことが嫌いで、常に人から抜きん出ていたいと願う目立ちん坊なのかも知れない。しかし偏屈の釣りには偏屈なりの奥深い愉しみがある。だから敢えて偏屈をお勧めする次第である。野垣スタイル、是非チャレンジしてみてください。



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