ここでは月並なアブ社の歴史を一くさり唸らせていただきますぞ!

ABUが合成語であることは、よもや諸君ならご存知のことであろう。フム。なに!?知らないって???

それでは我輩がここでずるりダラダラと、立て板に牛のよだれを流すがごとく、講釈して進ぜよう。

そもそもアブ社の誕生は、1つの会社によるリストラが発端だと言われておる。その名もハルダという時計会社じゃ。ここで雇われておったカール・アウグスト・ボーグストロム(Carl Augusto Borgstom)氏は、同じ工場で働いていた息子ともども路頭に迷う身となった訳じゃ。なにやら身につまされるお話じゃろう?春だなんてとんでもない。真冬じゃ。(寒いおやぢギャグ)

しかし彼らはここで挫けてはいなかった。生きにゃーならんけんの。という訳で、首になった仲間を集めて金を出し合い、新しく会社を起こすことにした訳じゃ。1920年のことらしいがの。そしてハルダ時計工場で工場長をしていたカール氏が中心となって会社を創立したことから、彼の名前の頭文字 A と B を取って ABU と名づけたという。ちなみに最後の U は Urfabriken (時計工場の意)の U じゃと言われておる。

でもホントはこれは間違いなんで、Aktie Biolaget (株式会社の意)と Urfabriken をつなげて縮めただけじゃという説もある。真相は今となっては闇の中じゃ。死人に口はないけん。許せよ。

とにかくそんなこんなで ABU という会社は産声を上げた訳じゃ。当初はハルダの後を受けて、タクシーメーターや時計の下請け仕事なぞをしておったらしい。しかしこのカール氏と息子のイエテ氏、中々のやり手だったんじゃのう。新型のタクシーメーターを開発するやこれが中々の好評で、まずまずの成功を収めた。

しかし喜んだのもつかの間、ほどなく親父どののカール氏は鬼籍に入ってしまう。会社の経営を一任されたイエテ氏は、更に新型の小型タクシーメーター・ Record の開発に成功し、会社の業績を上げようとする。しかし運が悪いことに、その頃には競争相手の追随が激しくなり、しかも世は第2次大戦間近の暗〜い時代へとひたすら突き進んでいくことになるのじゃ。

ヤーレ、困った。親父はもうおらんし、戦争でタクシーメーターはますますもって売れんワイ。という訳で方向転換を図ったイエテ氏が打った次の手が、精密機器での経験を生かしたリールの製造じゃった。アブ社最初のリール Record を1940年に売りに出したところ、なんとこれがバカ当たり。すぐに工場が手狭となって、買い足さねばならぬほどじゃったそうじゃ。つまりは輸入品の釣具が、戦争で外国から入ってこなくなっていたからなんじゃの。

とは言え、最初の頃はそれなりに苦労もしたようじゃ。Record ブランドだけではなくて、当初は Pebeco や WD (Wilhelm Denninghoff)、HJAB (Halmstads Jarnvaru AB) なんていうとこの OEM 生産も請け負っていたようじゃ。

今や時来れりと生産を急拡大させるアブ。元々の品質が高かったこともあって、終戦時にはなんと海外メーカーと比肩し得るほどの優良企業になっていた訳じゃ。やっぱり腐っても鯛、錆びてもスエーデン鋼よのう。そして終戦後にはアメリカのヘドンやフルーガーと、代理店契約をするまでになる。ちなみにハイローの顔がヘドンのルアーに似ておるのは、この影響かもしれんのぉ。

特に1941年から53年に掛けての12年は、第1次新製品ラッシュの時代じゃ。この時代に発表された Record リールだけで、軽く20を超えるぞい。いかにアブが急拡大したかが分かろうというものじゃ。

さても海外にまでアブの名はとどろくようになって、1951年には名誉あるスエーデン王室御用達の紋章を授けられることになるのじゃ。しかもそれに先立って、遠心ブレーキの特許も取得しておった。これがアブ社の飛躍を決定的なものにするのじゃ。

そしていよいよ1952年には最初の本格的なフリースプールリール、Record Ambassadeur 5000 が投入されるのじゃ。これはなんと言っても決定的じゃった。当時としては最新の技術と素材を使い、驚くほど軽く、回転は飽くまでもスムーズで、しかも万全の腐食対策が施されておったのじゃ。

最初はスカンジナビアで試験的に販売したところ好感触を得たので、アブはこのリールを世界市場に投入することにした。ここからアブの輝かしい歴史が始まったと言っても良いじゃろう。ちなみに当初のスカンジナビア限定モデルには MOD. S.G. の刻印が入っておるのじゃが、この意味を知っておるものは誰かおらんかのう。わしは Modell Svangsta の略ではあるまいかと思っておるんじゃが・・・・・。それとも Scandinavia のことかのう。

マァ良いワイ。死人に口はないしのう。それよりアブじゃ。いよいよ急成長を続けるアブは、1954年には Record Ambassadeur 6000 を、そしてその翌年にはアブ最初のスピニングリール ABU 444 を、更にその1年後にはクローズドフェイスリール ABU 30 と 60 を矢継ぎ早に投入していくのじゃ。この頃にはすでにアブはリール以外にもロッドやルアー、小物を供給する一大総合メーカーになっておった。

急成長するアブの勢いは止まらない。1962年にはクローズドフェイススピニング、ABU 503 と 505 を、そして翌年にはアンバサダーの最高峰、Ambassadeur 5000 De Lux を、更にその翌々年には Cardinal リールが追加されるに及んで、アブのラインナップはほぼその完成を見るのじゃ。

1960年代、70年代と業績の拡大を続けてきたアブは、1970年代末期になってふと足元を救われるような出来事が起こる。それはアメリカ市場でアブ製品の代理店をしておったガルシア社の倒産であった。1979年のことじゃ。原因は放漫経営による事業の拡大のし過ぎと言われておる。まるでどっかの国の銀行か不動産屋みたいじゃの。とにかくアブにとって、世界最大の市場アメリカを失うことは沈没を意味した。やむなくアブはガルシア社の買収に打って出る。このときの後遺症が元で、後にアブはアメリカの大資本傘下への身売りを余儀なくされる訳じゃ。アブにとっては不幸なことじゃったの。

ちなみに同じくガルシアに代理権を任せておったミッチェルの没落もここから始まる。ミッチェルの場合はもっと悲惨で、なにしろアブにガルシアを買われてしまったんじゃ。行くとこがない。仕方がないから先ずブローニングという銃で有名なメーカーと手を組むことにした。しかしそことは折り合いが悪く、ほどなく自らアメリカ市場に打って出るのじゃが、これはまた別の話。

アブの方も、ガルシアを買ったものの手にあまり、結局はその内自身が身売りを経験する羽目になるのじゃ。つまり他資本の注入じゃな。元々はスエーデンの会社・アブがアメリカに本社を移すのもこういう訳があってのことじゃし、アブの製品にだんだん魅力がなくなり始めるのもこの頃からなのじゃ。つまりはアメリカナイズされてしまったんじゃな。

1982年というのがオールドタックルを語る上での一つのアウトラインとされておるのじゃが、アブが正式にガルシアと合併してアブ/ガルシアと名乗るのもこの頃からじゃ。こう書くと全てガルシアが悪いみたいに聞こえるが、実際は少し違うぞ。本当はシェア第一主義の日本メーカーがアメリカ市場に安売り攻勢を掛けて来たために、既存のメーカーが大損害をこうむったというのが真相じゃ。

この点、未だに日本メーカーは昔と変らんことをやっとるのぉ。ま、昔よりはちとマシになったかの。しかしちょうどその頃釣具業界に大激変が起こって、かつての勇名を馳せたメーカーは次々に大資本に身売りしたり、消えていく運命なのじゃ。ヘドン、フィリップソン、シェークスピア、ブローニング、フェンウィック、フレッドアーボガスト、アムコ、フルーガー、フェザーウェイト、この内いくつかは消えていくのじゃが、バークレー、後の OTG (Outdoor Technology Group) に買収されて、その屍だけさらしているブランドも多いぞ。それも余計なお世話じゃったな。ではワシのたわごともこの辺で。





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